2012年9月10日月曜日

子供たちに『勉強の必要性』を語るのは難しい…?!

露店で『勉強しないといけないのは、なんで?』のお題を選んだ学校の先生。子供たちに『勉強の必要性』を分からせるのにホトホト困っているらしい。
「理科の授業で『オームの法則』を理解しても、ほとんどの子供たちは日常も、また将来も使うことはない。むずかしい数学なんかできなくても日常生活に支障はない。一体どのように『勉強の必要性』を伝えたらいいのか。」

理科や数学の授業において子供たちがソッポを向いて授業が上手くいってないのだろうか。それとも「先生、なんでこんなこと覚えなあかんの?」、と言われて返答に窮したのだろうか。

昔なら、「子供の仕事は勉強。そんなこと言ってたら高校に通らないぞ」とか、「今一生懸命努力したそのことが、将来の壁を突破する力となるのだ」などと話せば、一定納得して勉強したものだが…しかし、今の子供たちにそんなこと言っても子供の心に響かない。

「勉強の必要性は、自分の将来役に立つかどうかではない。勉強は自分のためにやるというのではなく、みんなのお役に立つため、みんなの期待に応えるため。」という店主の半答え。
なるほどと頷きながら、でも実際に子供たちに話す場面を想定すると、必要性を納得させるのはかなり難しいと感じる。「お役に立つ」ことが将来へ保留されるので、子供に実感させにくいのか…。

このお題、考えてみると結構奥が深い。

「みんなのお役に立つ立派な社会人になれ」、というのは60年代から70年代にかけての学校教育においてよく言われたこと。学校が私権(社会)秩序維持のための教育機関であることを考えれば、その中身は、「私権規範の遵守」(これが教育でよく言われる「文化の継承」の意味)と「豊かさを追求」(これが「文化の創造」の意味)することに他ならなかっただろう。
さすがに勉強することが、みんなのためだとは誰も思っていなかった時代だし、みんな自分のために勉強していたのだが、しかし、「勉強の必要性」は「社会で役立つため」というのは、子供たちの心には観念的にはほぼ受け入れられていたように思う。
もっとも、ほとんどの子供たちは、勉強しているより仲間といっしょに遊び回っていた方がはるかに面白いので、昔の子供たちの多くもいやいや勉強していたのは言うまでもない。

何が違うのだろう。

子供を取り巻く圧力構造が全く違うからではないか。60年代~70年代は豊かさがどんどん実現され、私権獲得の可能性が開いていった時代。個人も家庭も企業も、そして社会全体が私権で統合されていた時代。だから、自分のためであろうと、社会のため、みんなのためであろうと、どれも私権原理による圧力構造の下で一致していた。だから、豊かな「社会」の実現のために勉強は必要、と言われても子供たちは納得していたのだろう。

ところが、現在統合原理が私権原理から共認原理へと移行しつつある。が、教育制度をはじめとする古いパラダイムの中で、人々の意識もまた完全に転換できていない。人々は統合不全を抱え、個人も学校も社会もイコールで結ばれていない。
一方、子供たちは大人社会よりも先行する形でみんな収束し、より共認原理の働きやすい圧力空間を作ろうとしている。にも関わらず、お役に立つべき「新しい共認社会」はパラダイム転換途中であり、顕在化していない。その証拠にみなの期待に応えるというならば、大人たちは一体彼らにどんな「期待」をかけているのだろう。自信を持って彼らの社会における役割(出番)を語れるだろうか。

もしかれらに寄せる「期待」があるとすれば、まさに君らの時代こそ、新社会=共認原理で統合される社会をいっそう実現してくれ、という期待しかないのではないだろうか。
だから、子供たちが「何のために勉強するの?」と問いかけているのなら、その問いの本質は「なぜ大人社会とこども社会の圧力構造、統合原理がずれているの?」という問いかけではないのだろうか。

「なんのために勉強するの?」という子供の問いかけは、実は子供発なのではなく、むしろ、新しい子供社会と古い大人社会の矛盾のはざまに存在する、講師たち自身の発する葛藤の言葉ではないか。
そうであれば、この問いを素直に言葉として発し、「勉強の必要性=認識の必要性」を共認すべきは、旧パラダイムから早期に脱却すべき講師達ではないかと思う。そうしないと、子供たちは誰もついてこないだろうから。


吉国幹雄 

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